圧縮された風景


先日、友人から結婚式の招待状が届いたときのことです。
仕事の合間に返事を書き、ポストに投函しようと思ったところで、自分が会社近辺のポストの位置をまったく把握していないことに気づきました。
まあメールがメインの連絡手段になっちゃったし、ポスト使う機会も減るよなーと思いながらネットで検索したところ、すぐに見つかりました。しかも会社の目と鼻の先に。

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こちらが実際に足を運んだポスト。見ての通り、物陰にあるわけでもなく、堂々と佇んでいる。

50mほどしか離れていないポストにたどり着いたところで、ふと心にざわめきが生まれました。
ポストはかなり人目に付きやすい色をしているし、見れば誰でもその用途がわかります。なのに僕は3年半もの間、何百回とこの道を通りながら、ポストの存在に気がつかなかった。はて、なにがそうさせているのか…

人は街を歩く時に、ゴール地点以外の要素はなるべく省略するようにできています。逆に、一度でもゴールに指定された要素は、時間が経っても街を構成するものとして記憶に残ります。
ゴールが街の姿を浮かび上がらせる例としては、地下鉄を想像していただくのが一番わかりやすいと思います。窓から見える風景は皆無なのに、よく使う駅の位置座標はなんとなくみなさんの頭の中に形成されていると思います。そのとき座標間の距離は、地下鉄での移動に要した時間によってイメージが形成されます。そして自分にとって重要度が高いほど、その座標の存在感は強まってゆくことになります。結果的に、個人の思考(志向)に由来した、歪んだかたちで街の印象はできあがってゆきます。

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僕の脳内にある日比谷線沿線の駅の配置図。当然ながら、実際には線路は直線ではないし、駅と駅の間の距離はまちまち。それでも地下鉄に乗っているときの感覚から、歪んだ地図が想起されてしまう。

どうやら人は風景を圧縮して眺めているようです。肉眼で見た世界はカメラよりも高解像度だと思いがちですが、実のところ脳が不要だと判断した情報は大胆に切り捨てられています。にもかかわらず、人はあたかも街全体を知っているかのように勘違いをしてしまう。今回は僕に「ポストを探す」というイベントが発生したことで、一時的に非圧縮の風景を見ることができたというわけです。

このことに意識的になった状態でいつもの街を歩いてみると、きっと新しい発見があると思います。たとえば、ふだんもっとも頻繁に使う駅を出て、駅前の見慣れた建造物群の2階以上のフロアにどんな店があるのか眺めてみましょう。1階の店舗は目線と同じ高さにあるため記憶に残りやすいですが、見上げてはじめて認識する2階以上のテナントになにが入っているのかは、意外にわかっていない場合が多いものです。改めて目を向けてみると、隠れ家的なカフェや、雑貨屋や、整骨院など、知っていれば生活を豊かにしてくれるお店が意外に多かったりします。
平凡な日常もこうやって考えてみると、なんと気づきが多いこと。そして自分が日常の中で無意識に行っているフィルタリング行為はけっこう多い。ちょっとだけ怖い気持ちになったりもします。

山口 陽一郎
アートディレクター/デザイナー 主にwebサイトやアプリを作っています。
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