サストコ
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サストコ

[Special Contents デザイナーの素]ってどんな企画?

子どもの頃、みなさんはどんな体験をしましたか?
 
この Special Contents「デザイナーの素〜今の私を構成する体験〜」は、コンセントと、所属するAZグループ各社のメンバーが、子どもの頃によくやっていたこと、好きだったこと、今の仕事に影響する過去の体験を紹介する企画です。
 
企画の詳細はこちらの記事を。
[Special Contents] デザイナーの素 〜今の私を構成する体験〜
 
それら体験エピソードを勝手に(伝わるしくみじゃないけどw)4つに分類。
この記事では、環境に関する体験談を紹介します。

発見したこと
・本に触れる機会の多い環境だった人が多い
・親が協力的だった人が一定数いる
・賞をとったり褒められたりすることは、自信やモチベーションUP、
将来の夢につながるなど好影響を与える
・ネガティブな状況や苦手なことを別なことで補いプラスにしている人がいる

 


■家にはいろんな本が

百科事典が好きだった」という男性ディレクターは、「たぶん百科事典ブーム的なコトが世の中的にあって、家に何セットかあったのをよく眺めていた」そう。
“家”や“家庭”で本が身近だった人は多いようです。

・「読むことが好き。⇒父の書棚が家のいたるところにあり、レーティング無視で自由に読めた」(男性 デザイナー)

・「家の本棚には画集があった。小学生低学年の頃、キリコ、ダリ、エルンストといったシュルレアリストの絵画が何故か好きで、背徳的な気持ちが多少あったからか、親からこそこそ隠れては画集を開いていた。ページをめくるたびに広がる鮮烈なイメージの数々がどこか恐ろしくて、でもその力強さ、美しさに目が離せなかった」(男性 デザイナー)

周りにあるものに対しての子どもの興味、感受性の深さってすごいですね!

・「読書。⇒両親が出版社勤務ということもあり、子供の頃からいろんな本に触れさせられました。いまこの仕事をしているのはその影響だと思います」(男性 出版社 取締役/営業部部長)

出版社勤務という同じ道を歩んでくれるって、ご両親からしたら嬉しいでしょうね。家庭での会話も本に関することがやっぱり多くなるのかな。読書感想文の宿題は楽勝だったろうな…と思ったけれど、逆にプロだけに求めるクオリティが高かったりしたんだろうか。興味深い。

■親が与えてくれたもの

両親に与えられたことで興味をもったり、関心があることに対して両親が投資してくれてますます好きになったり、親が○○を与えてくれた、という体験談を寄せてくれた人は多かったです。

・「本を多く与えられた
⇒幼少時は毎月絵本が届くサービスを利用しており、それを楽しみにしていた。成長してからも誕生日やクリスマスなどプレゼントはすべて本だった。本なら好きなだけ買ってもらえるという約束があった。幼稚園に入る頃にはひらがなは読み書きできた模様」(女性デザイナー)

まさに“本に囲まれた生活”。“ひらがなを覚えよう”というのではなくて、“本を読みたい”っていう欲求があるからこそ、その目的を果たすための手段としてひらがなの読み書きができるようになるのかも。大人が英語を勉強するときも海外出張のため、とか目的がある人の方が吸収力がハンパなかったりするような…。

・「もともと神戸の生まれなのに、育ったのが福井という田舎だったこともあり、色々と知れば知るほど東京とか最新のものへの憧れがどんどん膨らんでいく一方。なのに現実は、お金もなく東京も遠い、テレビのチャンネルも少ない。その落とし所として選んだのが、唯一ふんだんに買い与えてもらえた雑誌を読むことに繋がったような。
今にして思うと、モノやコト自体よりも、最新情報を追うのが好きになったのはその辺りに理由があるような気がします」(男性 クリエイティブ・ディレクター)

さらに彼は小学生から新聞を読んでいたそう。楽しみ方がマニアック…。

・「父のとってた朝日、日経、地方新聞を意味もわからず読んでたのが3、4年生ぐらい。全段ぶち抜き4Cの広告がキレイだなぁとか、サンムツの雑誌広告見てなんか知ってる単語が出てきたーとか憶えてる。他にも、カード会員誌『GOLD』とかニッセンのカタログとか『家の光(農協の雑誌)』まで家の中にあるものはなんでも読んだようなw」(男性 クリエイティブ・ディレクター)
“なんでも”!! 読むことへの情熱、すご過ぎ!

本以外ではこんなアイテムが。

・「物心ついたときから両親の影響でスキーを毎年冬春でガッツリやってました。グッズとかも毎年のように買ってもらっていたので、今思うとかなり贅沢だなと思います。すごく上達して楽しかったんですが、中学の終わりくらいから友達と季節のイベントで遊ぶのが楽しくなってしまい、高校くらいで趣味程度になりました」(男性 ディレクター)

・「大量のレゴを与えられていた。なぜかは判らない。おもちゃ=レゴだった。日常的に何かを作って壊してた」(男性 ディレクター)

・「絵を描くのが好きだった。⇒ものごころついた頃から現在まで。とにかく画材・紙をたくさん与えてくれた親には感謝しています。その結果として絵好きが高じて中学高校は女子美に行き、課題制作と〆切り追われる日々(時に徹夜も…)を経験。今に何か繋がっているような、いないような…。とはいえおかげで構図や色のこと、デザインのこと、美術の歴史の知識、などといった基礎的なものが身に付いて、今に繋がっているのかなと思います」(女性 プロジェクトマネージャー)

絵画教室に通ったり、書道やピアノを習ったりしていた女性デザイナーは、
「絵や書道、作文で賞をもらったり、褒められるのが嬉しいから続けられた。両親の影響はかなり大きい。子どもの芸術分野への興味を好ましく思い、投資してくれた」と考えてる。

子どもの周囲にどんなアイテムを与えておくかって、興味の向き先や将来にもつながるし重要ですね。

■協力的な両親

前述の「父の書棚が家のいたるところにあり、レーティング無視で自由に読めた」という男性デザイナーは、

「まだ漢字が読めないころ、コナン・ドイルポー(なぜ…)の作品に母がルビを手書きしてくれたり、たくさん読むと父が賞状を作ってくれたり。わかりやすくして、読み手を嬉しくさせる仕組みを味わえたことは自分にとって大きな体験だったと思います」

という。
彼のデザインとの向き合い方(読み手にとことん寄り添う、読み手にとっておもしろいかを追求する)を尊敬していたけれど、『なるほど! 過去にこういう体験があったのか!』と、すとんと腑に落ちました。

子どもを楽しませようとしたり、子どもの関心ごとに両親が協力してくれたりという経験をもつ人は多い。

・「小学校の夏休みの宿題の『自由研究』、けっこう本気でやりました。父親が研究者(農業系)をやっていて、この手の教育に熱心だったので、毎年、テーマ設計、実際の取組み、まとめ方までよく面倒を見てくれました。父親のフィールドである『育成環境で、稲の収穫量はどう変わるか』みたいなことや近隣にどんな神社、お寺があるかを調べて回り、そのルーツを辿ったり、けっこういろいろやりました。『気になったことを調べる』『分かったことをまとめる』の基礎を教わった気がします。父親、厳しかったけど楽しかった、今に繋がる体験です」(男性 プロジェクトマネージャー)

・「父親がよく本を読んでくれたりお話を聞かせてくれたあとに、『主人公がどう思ったのか?』『”それ”っていっているのは何をさしているのか』といった問題を出されるのが好きでした」(女性 プロジェクトマネージャー)

・「『ごっこ』遊びが好きだった。⇒◯◯レンジャー的なヒーローになりきる遊びが好きだった。
あるとき、忍者になると言って、『腰からおにぎりを下げて出かけたい』と言い、母親におにぎりと巾着を用意してもらった記憶があります。両親はいつも協力的でした」(男性 プロジェクトマネージャー)

・「父が考えた遊びをしていた。⇒夕食後に家族みんなで父が考えた変な遊びをしていた。ルールは忘れてしまったけど、新聞紙と厚紙で玉と楯をつくって投げ合ったりしてたような。。」(女性 ディレクター)

こういう体験をしていると、自分が親になったときに「同じようにしてあげたい」って思うかもしれないですね。

協力的というか、『母親の愛って深い、大きい』と感じた体験談をご紹介。

・「そろばんとか習字とかピアノとか、一般的な習い事は一切していなくクラシックバレエとお絵かき教室に行っていた。今思うと親は大分いい選択をしてくれたが、まわりの友達が誰もやっていなくて、小学生の時は誰にも理解されなかった記憶。どうやら親同士の間でも、母は理解されていなかったらしい(笑 」(女性 ディレクター)

・「空想癖が激しい。⇒小学校1年生当時、夏休みの宿題の絵日記に空想の出来事を書いて提出。場面設定や展開等は子どもながら辻褄があっていてリアル。今見返してもクオリティが高く驚愕する。母は虚偽の絵日記だと気付いていたが、『本当によく出来ていたから、そのまま提出させた』と当時を語る」(女性ディレクター)

・「パンツ(ズボン)を履いたことがなかった(※生死に関わるほど寒い山形にいた時以外)⇒ズボンは作業着であると母に言われていて、学校は勉強を教わるところで、人にモノを教えてもらうのだからスカートを履くべきと言われていた」(女性PR/マーケ担当)

周囲からの理解よりも子どもにとっていいことを選択するとか、なぜそうなのか理由を含めて作法を教えるとか、大事にしたいことですね。

一方、父親は背中で語る?
・「父親が仕事人間だった。→朝早くから夜遅くまで仕事をしていた。サラリーマン家庭じゃないので、基本1日家にいたけれど、ずっと仕事をしていたので、あまり話をしたことがなかった」(男性 ディレクター)

■家庭環境いろいろ♪

俯瞰した観点はここから育った?!
・「親族が多く、多数の大人に甘やかされていた。⇒父方、母方ともに本家なので親族、縁者も多く、接する大人が多かった。いとこの中でも最年少なので、一番甘やかされていたと思う。高校入るくらいまで、同年代より大人との方が接点が多かった」(男性 ディレクター)

オシャレ~♪な環境
・「ピアノを3歳から習っていた。⇒母がハモンドオルガン教師だったので、音楽は早かった。家では常にクラシックがかかっていた」(女性 デザイナー)
素敵ー!

・「家業なので洋服に囲まれてた。⇒両親の仕事場にはあまり近づかなかった。意識的に子供がウロウロして良い場所じゃないと思ってた気がする」(男性 ディレクター)
だから彼はあんなにオシャレなんだ! 納得!! そして小さい頃からなんと思慮深い…。

テレビとは無縁?
・「レゴをよくやってた。⇒テレビゲームどころか家にテレビがなかったので、レゴの基本のパーツだけでよく遊んでいた。四角いブロックだけで、なんで飽きなかったのか不思議」(女性 ディレクター)

・「テレビはあまり好きではなかった。⇒チャンネル権がなかったのか、主張しなかったのかは曖昧だが、自分の興味のある番組を見る機会に恵まれず、そのためかその後テレビを見る習慣が定着しなかった今も家にテレビがない」(男性 デザイナー)

■賞をとったり褒められたり

今回のアンケートの回答で印象的だったことの1つが、賞をとった経験を書いている人が多かったこと。
前述の女性デザイナーも「絵や書道、作文で賞をもらったり、褒められるのが嬉しいから続けられた」と言っていました。
褒められて、うまくなったことを実感できると「もっとがんばろう」って思えるのかもしれません。

・「学校の写生コンクールで入賞。好きだった写生がさらに好きになった。
あと習字も好きだった。先生に褒められたり『お手本みたいな字』と友達から褒められてますます好きに。(当時の)文部大臣賞をとって東京都美術館に飾られて、受賞式に参加したのは人生の中で唯一誇らしい経験です」(女性PR/マーケ担当)

・「絵を描いたり、字を書いたりするのが好きだった。⇒習い事をしてたわけではないけど、(絵の)校内のコンクールでは必ず入賞してた。教室内の掲示物もそういえば率先してつくってた。⇒キレイに描いたりすることに快感を覚えるほうだったから、その感覚は今のデザインの根底にあるから絶対影響してる」(男性 アートディレクター/デザイナー)

・「図工。⇒なにか絵を描いたり、動くものを工作したりするのが好きだった。お花畑の絵で小学校三年生くらいのときになにか賞をもらいました」(女性 ディレクター)

・「エレクトーンで入賞したり、子ども向けの発表会でゲスト演奏したりしていて、将来はエレクトーンの先生になるつもりだった」(女性 PR/マーケ担当)

・「文集の表紙や学園祭のパンフレットの表紙などに選ばれたりしました」(女性 デザイナー)

・「県の西地域の版画コンクールで準特選をもらったり、担任を描く校内似顔絵コンクールで金賞をもらったりして、俺ってけっこうそっちの方面もいけるかもと思ってた」(男性 クリエイティブディレクター)

友達から褒められたりするのも嬉しいですよね♪
・「外遊びを一切しない子でした。部屋のなかでなにか工作手芸、なんてことない物を作ったりして、それを『面白いねー、上手だねえ』と見てくれる友達がいました」(女性 デザイナー)

・「小学校時代から『絵を描くのが好きな子』と周知されていました。高校までエスカレーター式の私学だったので、卒業まで友人・先生はみんなそういった認識だったと思います」(女性 デザイナー)

こんな強者も!
・「読書感想文などの作文が得意で、提出したものは必ず入賞していた。中学生の頃、友人の読書感想文を代筆してあげた経験がある。友人との関係性や報酬で作文のクオリティを操作していたので、代筆したものが入賞することはなかった」(女性 ディレクター)

…「関係性や報酬によってクオリティ操作」ってすご過ぎるんですけどw

これはトラウマになるんじゃ…
・「絵や漫画を描くのが好きだった。⇒小学生のとき授業中に描いた絵を先生が気に入ってくれて、地元の県のコンクールに出して入賞した。しかし、コンクール後に学校に戻ってきた絵を見たところ、先生によってかなり手が加えられていたので、自分が賞を獲ったわけではないと感じた」(男性 デザイナー)

先生ー!! 子どもは細かいところをちゃんと見てるんですよ。デリケートなんですよ~!!

■環境で得た気づき、影響

家庭や学校などの周辺環境の影響で、ふと悟ったり、という体験も。

まずは家庭。
・「聖書教育を受けていた⇒人間の力の及ばないところで何かが起こりうる、みたいなことを信じているところがある⇒どんな権力を持った人も、所詮人間、とか思ってるところがある」(女性 PR/マーケ担当)

・「祖母が長期間入院していたせいで、家から登校~祖父の家に帰るという生活が長かった。祖父両親弟叔父叔母従兄弟を含め横浜のド真ん中とは思えぬ大家族時代があったこと。そこで十歳くらいしか年齢の違わぬ叔父に受けた影響はかなり大きい。これがもう原ヲタクというか趣味人でねぇ…(笑)。もちろん電気屋だった親父の影響も大きいけれども、あちらは仕事人だったし。つまり職人の勤勉は父から趣味人の煩悩は叔父から、という」(男性 アートディレクター)

・「年の離れた弟や妹の世話をしていた。⇒幼い子は突然予想もしないことをやらかしたり、あるいは突然危ない状況になったりするということを経験上わかっていて、できるだけそれらを回避するような行動を取ることが多かった。些細な例でいえば、テーブルの端近くにコップが置かれていたらテーブル中央に寄せるとか、ドアを開ける時に『もしかしたら陰に小さい子がいるかもしれない』と想定してゆっくりあけるとか」(女性 PR/マーケ担当)

物事の先読み感やおもてなし感がすごい!と思っていたけど、こういう経験が関係しているんだー。

・「兄がへたに漫画が上手かったので、漫画やイラストの学校に行こうとして親に大反対をされたのを見たので、上手くやらんとなと思った。けど、自分は兄と比べて全然絵も工作も上手くないので、当時自分がこんな仕事をするとは思わなかった(絵が上手い=デザイン=美術みたいな田舎的な考え方しかなかった)」(男性 クリエイティブディレクター)

また学校関係では、転校が多かったという女性 PR/マーケ担当のエピソードを。

・「転勤族だったので転校が多かった⇒何の文脈もないところに突然突っ込まれても、何らかの共通項を見つけ出すことで友達を作ったりしていた⇒ある場所での常識が別のところでは常識ではない、ということに気づいていた」

・「文通をしていた。⇒転校が多かったので、それまでの友達とわりと長く文通することが多かった」

・「いじめが許せない子だった⇒転校生ゆえにいじめられたり、逆にいじめられる子の気持ちが分かるがゆえに、助けに入ってまたいじめられたり」
と回答。

彼女は人脈がハンパなく広くて、初対面の人でさえも瞬時にうちとけさせてしまうシーンを何度も見たことがある。
『転校が多い』状況を乗り越えるため、『共通項を見つけ出すことで友達を作る』という姿勢をとったのってすごいなーと思う! 繰り返しているからこそ身についていて今に繋がるんだなー。

『ある状況や苦手なことを他のことで補う』という経験をもつ人たちもいます。

・影響した過去の体験は、『10歳でオランダに引っ越した』こと。英語が一切わからなくて、授業とか意味わかんないから座っているだけで、テストが0点で、友達もいなかったときの心の拠り所が、図工(美術)の授業や、絵を描くことでした。肩書きとか、言葉とかではない、世界の人と繋がれる可能性を秘めた行為(音楽とか、スポーツとか、美術とか)って本当に強いと思いました。『わかってもらえなかった』経験があるから、コミュニケーションに固執しているのかな、とも思います。
そして『オランダ』自体も。すべてのデザインがださかっこいいところで、思春期をまるごと過ごしたから」(女性 デザイナー)

『わかってもらえなかった経験』って深い。メールや挨拶、何気ない会話がとても丁寧な彼女。こういう体験がベースにあるんですね。

・「大勢の人の中に入ることや、目立つことが苦手だったので、そのコミュニケーション力不足を埋めるのに絵や文章が得意というのはかなり助けになっていたように思う」(女性 デザイナー)

7月のサストコ特集『人間の中にある「編集デザイン」』の鈴木誠一郎さんの話を思い出します。
「得意なものを広げていって、最後に不得意なところを潰す」

そして、学校ではいろんな委員や係を担当させられることも多いですが、受け身どまりにせずに才能を発揮させてた人たちがいます。

・「小学校時代、掲示委員に入っていて、校内の掲示板を季節に合わせてディスプレーしていました」(女性 デザイナー)

小学生の頃から時間や文脈を考えてるなんて!

・「小中高とずっと学級委員的なことをやってた。親が真面目だったので、自然と小さい頃は真面目だった。クラスに人気者がいると「委員」止まりで、居ないと「委員長」をやってた。誰も発言しない学級会の司会を毎週やり、教師の職業としての立ち位置の自覚のなさや、生徒たちのめんどくさいことへの無関心に、静かな憎悪と怒りが芽生えた。さすがに高校ではもうちょっとましだったので、ああ、高校ってすばらしいなって思った」(男性 クリエイティブディレクター)

なるほど! 毎週司会をやっていたから、今あんなにファシリテーションするのがうまいんですね~!

・「学級新聞とか予定表づくりとか、いつもやってた。
新聞係…ガリ版とか、薄ーいミドリ色のガイドが印刷されたコピー原稿用紙にかいたり、やってましたー。レイアウト得意だった。
あと印象に残っているのが、中学校2年のとき、担任の先生に月刊予定表づくりをやらされていた。よく考えるとそんな係なかったし、私ひとりで一年ずっとだったし、だいたい先生の仕事だったはず…不思議。でもうまく見開きにおさまるように表を組んで、タイトルを袋文字にして色柄(モノクロだけど)毎月変えて、と楽しんでいた。

もうひとつ思い出した。中三のときに卒業アルバムのクラスのページを作る担当をひとりでやらされた。膨大な行事写真からピックアップして切ったり貼ったり、文字や絵で飾ったり。嫌がらせされてばっかりで友達いなかったので、『全員ちゃんと載っているか』『スクールカースト上位者がいいところにくいこんでいるか』とか心砕いて、胃が痛くなりそうだったが、クラスメートは喜んでいた。
自分自身はアルバムを焼き捨てたいくらい中学校が嫌いだったので(親にとめられて燃やさなかったのでまだ実家にはあるが)見返してもいないけど、自分にとってまったくいい思い出がない年月を素敵にまとめたのは、プロの仕事である」(女性 デザイナー/アートディレクター)

エディトリアルデザインをすでにやっていた!? しかもひとりでやっちゃうなんてすごい!

・「小学校低学年の頃の授業参観で、クラスの子達のコメントを黒板に書く係みたいのになった時、ただ書きだすのではなく、すぐその場で、ある観点で頭のなかでグルーピングし、まとめた上で書きだしたので、授業参観に来ていた保護者たちがびっくりしていた(と、授業参観後に、先生と母から言われてむしろびっくりした)」(女性 PR/マーケ担当)

そして彼女は現在、“コンセントIA婦人部”を率いてまーす。

 


●[Special Contents] デザイナーの素 〜今の私を構成する体験〜
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