サストコ
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サストコ

※本記事は、2013年7月26日公開のサストコ「FEATURE ARTICLES 12 人間の中にある『編集デザイン』」のテキスト版です。

コンセントが所属するAZグループの持株会社AZホールディングスの元取締役会長 鈴木誠一郎さん。昨年退職された田中晃二さんとともに「集合デン」を1971年に創業、この6月をもって定年退職されました。
40年以上、「編集デザイン」に取り組まれてきた方。鈴木さんの考える「編集デザイン」って何だろう?

 

「“編集デザイン”は汎用性の高いテーマ。
人は誰でも、瞬間ごとに世界を“編集、デザイン”しながら生きている」

 

そして出てきた「バイクレース」「連句」「ガールズトーク」(!)といったトピックの数々。一見なんの関係性もなさそうなのに、鈴木さんの話を聞くと共通点が見えてくる。そしてそれは、自分の興味分野や仕事にも共通して言えることだったりして、つながりが広がっていく。
鈴木さん独自の「編集」を通すと物事はどう見えているのかをひも解きながら、人と「編集デザイン」の関係を考えてみます。


鈴木誠一郎さんのプロフィールページ

《CONTENTS》
PROLOGUE  人間は瞬間ごとに世界を編集しながら生きている
■面白いこと自体を素直に追求する
CHAPTER 1 バイクレース × 鈴木誠一郎
■頭を使わない訓練
■高いテンションと冷静さ。「自分の土俵」づくり
■競い合いながらも、「1つのレース」として成り立たせる
■得意なものを広げていって、最後に不得意なところを潰す
CHAPTER 2 連句 × 鈴木誠一郎
■的確な判断を瞬間的にやる「捌(さば)き手」
■インプットされたものから自由になる
■予定調和ではないコントロール
■受け手が「穴」を埋める構造
CHAPTER 3 ガールズトーク × 鈴木誠一郎
■発見のネタが無数に転がる「ディテール」
■人間のコミュニケーションはそれ自体が目的
■ガールズトークは人間のコミュニケーションの本質
■直感的な判断と理屈での分析
CHAPTER 4 ページの編集デザイン × 鈴木誠一郎
■時間的な自覚が必要
■不易流行と時間的な広がり
■意図しきれない成功

THE CHIEF EDITOR’S NOTE
《Long Interview with Seiichiro Suzuki》


PROLOGUE 人間は瞬間ごとに世界を編集しながら生きている

■面白いこと自体を素直に追求する

青木 今日の取材準備として先日お話をうかがったときに、「編集デザイン」をテーマにしていたはずが、バイクレースや連句、ガールズトークといったお話が出てきて面白いと感じました。一見、何の関連ももたないこれらのトピックがなぜ「編集デザイン」というキーワードから展開して出てきたのかということも考えながら、今日は一つひとつについてお話を聞いていきたいと思います。

鈴木 われわれが仕事としてやっている「編集デザイン」はその可能性の一部にすぎなくて、もっと一般性が高いと思っている。人間って誰でも瞬間ごとに世界を編集しながら生きている、あるいは世界をデザインしながら対処しているっていうところがあるから、何だって「編集デザイン」につながらないわけはないんだよね。「これ、面白そうだな」って興味をもったこと全てが、その人の中の「何か」でつながっているはず。
何をやるかについて「こういうことの役に立てよう」ということをあまり考え過ぎると、それ自体が自分の手かせ足かせになることがある。むしろ、自分の直感に従った方がうまくはまる。それ自体に集中して追求しないと、一番貴重なものを見つけ損なうんじゃないかなって思うんだよね。

青木 頭でっかちに考えるんじゃなく、感覚的に気になることが大事なんですね。

鈴木 気になることは、自分にとって必ず何か意味があることだと思うからね。発見っていうのは何かを発見しようと思ってそのとおりに発見したら、それは発見とは言えない。すごく大事なものが目の前に転がってきたときにそれに気づく能力を高めることが、一番大事なことだと思うんだ。
たとえば、われわれの仕事で言えば、「編集デザイン」を現在ある仕事の枠組みだけで捉えて考えるとビジネスモデルが限定されてしまう。でも本当はもっと広がりがあるはず。その未知の可能性を発見するには、まずいろんなことをやってみないとわからない。だから「編集デザインのために」ではなくて、「自分自身にとって、面白そう」って思うことがすごく大事なんだよね。ただ、全然違うことをやっているつもりが、結局仕事と同じようなことをやっていたということもあるよ、私は割と多いんだけど。でもそれはあくまで結果でしかない。
あれこれ考えずに面白くて達成感がありそうって思えることを素直に追求してる方が、モチベーションは高いしパフォーマンスも絶対上がると思うんだ。

 


CHAPTER 1 バイクレース × 鈴木誠一郎

■頭を使わない訓練

青木 鈴木さんが直感に従って始めたことの一つにロードレースがあるんですよね。いつから興味をもたれたんですか?

鈴木 最初にロードレースをやったのは35歳のときだったかな。初優勝できるまでには4年ぐらいかかったよ。
そもそもバイクに乗り始めたのは30歳か31歳ぐらいで、ツーリングしたり林道や山道をオフロードバイク(※1)で走ったりしてたんだけど、やってるうちにだんだんエスカレートしてきて、バイク雑誌のデザインの仕事をやり始めたんだよね。忙しくてバイクで遊ぶ時間がなくなったりということもあったけれど(笑)、仕事をやっていたおかげで、日本でも素人のバイクレースを盛り上げようという動きが始まった頃に、それに関わって、当然のように自分もレースをやるようになった。

※1 オフロードバイク:舗装路外を走ることを主目的としたオートバイ。(「デジタル大辞泉」より)

青木 どんな練習をされるんですか?

鈴木 ロードレースでは複雑な状況判断を瞬間的にやらなきゃいけないんだよね、路面状況がどんどん変わるから。途中で雨が降ったりということもあるし、前のレースで誰かが転んでオイルをこぼすと、おがくずを撒いて掃除するものの、トラクションが悪くなったりして。そういう環境で、しかもすごいスピードの中で競い合うわけだから、かなり複雑な状況判断になる。頭で考えてる余裕は全然なくて、常に体で状況を感じていて、何かあったときにも体で反応するっていうふうにしないと間に合わない。すごくレベルの高い話だから、私なんかがそんなことを言うのはおこがましいんだけれども。頭の回転はスピードに限度があるから、感覚でインプットされたものを頭の中で処理して、それをアウトプットして返してたんじゃ遅すぎる。複雑な状況に反射的に対応する、要するに頭を使わない訓練が必要。

青木 頭を使わない……、難しいですね。

鈴木 もちろん、頭で考えていろんなことをやるんだけれども、それを考えずにできるように練習するって感じかな。

青木 練習でいろんな状況を経験して体に染み込ませておいて、レースで同じ状況になったら、同じ状況だということを体で感じて、あのときこうだったと体で返すということですかね?

鈴木 ただ、既に経験した状況に確実に対応するだけじゃなくて、経験したことのない状況にも対応できるようにならないとだめなんだと思う。全く同じ状況なんて再現されないからね。

青木 振り返ったらできるようになってた、ぐらいの感じですかね?

鈴木 あるいはその場になったらできたというか。一種の極限状況なんだよね。「火事場の馬鹿力」の連続みたいな。そういう極限状況を体験できたっていう意味では、ものすごく貴重な経験だった。日常だと経験できない、あの緊張感と終わった後の達成感ってものすごい。特に初優勝したときのことは、今でもまざまざと体感がよみがえることがある。

「バイク雑誌のファッションページのモデルをやったときの写真。この撮影で着た赤いセーターをもらったんだけど、今でもまだ持ってるよ」


#1 頭で考えない世界の入口
#2 翻訳料でモトクロッサーを購入

 

■高いテンションと冷静さ。「自分の土俵」づくり

青木 優勝したときって、どんな感覚なんですか?

鈴木 一種の神がかった状態をつくるんだけれども。でも神がかり過ぎちゃうと、現実から遊離してパーッと飛び出しちゃうわけだよ。プロのレーサーでもハイになり過ぎちゃうとだめらしくて、あまりにも絶好調なときって転倒したり失敗するみたい。テンションが高い一方で、ものすごく冷静になってなきゃいけない。そういう状態に自分をもっていく訓練も大事なんだと思う。
走り始めたら考えちゃだめなんだけれども、走るまではいろんなことを考えなきゃいけない。たとえば、レースまでにバイクをつくったり整備したり、勝つために練習をしていろいろ積み重ねるんだけれど、みんな同じようなことをやってるわけじゃない? なんで私が優勝できたかっていうと、共通の土俵に乗らずに、みんなと違う自分だけの土俵をうまくつくれたからだと思う。

青木 自分だけの土俵?

鈴木 たとえば、コーナリング技術とかパワーとか、みんな似たようなところで競い合ってるわけじゃない? だから、誰も追求していないような穴になっているものを見つけて、それをうまく追求できると勝てる。
私の場合は、あるレギュレーションの250ccクラスのレースに200ccのバイクで出るという作戦を考えてね。ほとんどの人は公道も走れる250ccの市販バイクを改造したレーサーで出るんだけれど、200ccなら、125ccのレース専用モデルの車体に、レギュレーションに合致するエンジンを乗せられることがわかった。エンジンも、200ccでも、オフロードレース用のエンジンのパーツを使って、パワーもさほど250cc市販エンジンに遜色のないものをつくれる方法があった。それを、プロに頼んで完璧に作ってもらった。つまり、パワーを少しだけ犠牲にすると、他に較べて軽いし操縦性が圧倒的に優れたバイクができる。市販車とレース専用モデルってそこが全然違うから。
なぜその作戦を考えたかっていうと、当時ホームコースみたいにしていた宮城県の菅生サーキットが、比較的単純なスピードコースだったのが改修されて、両端に細かいカーブと上がり下がりがあるようなテクニカルコースに変わったということがあってね。私のバイクはその両端のグチャグチャしたところ(=インフィールド)ではダントツに早いわけ。1周目の最初のインフィールドでトップに出たんだけど、そのレースにはものすごくパワフルなバイクが1台いて、私はインフィールドで抜くけれど、裏のストレートとゴールライン前の最後の登りストレートで必ず抜き返されるっていう展開が3周ぐらい続いてたんだ。少しずつ差はつまってたけど、最後までそのままの展開だと向こうの勝ち。だけどバイク乗りってコーナーで抜かれるのがすごく嫌なんだよね、下手だっていう感じがしちゃうから。で、4周目に、その1台が裏のインフィールドでまたこちらが抜きそうになったときに、無理をして転倒してくれた。それで勝てたわけ。

青木 それが同じ土俵に乗らないで穴を探したということなんですね。

鈴木 うん、そのバイクではその後もたしか2回優勝できた。

「実は自分でレースに出てるときの写真ってあんまりないんだよね。ロードレースはスピードが速いから、走ってるところを撮るのは結構難しくて、素人写真ではたいていぶれたり流れたりしちゃう」

 

■競い合いながらも、「1つのレース」として成り立たせる

青木 鈴木さんが「すごい!」と思えるのはどんなレースですか?

鈴木 ぶっちぎりのレースって面白くない。抜きつ抜かれつの方が面白いと思う。でもなにより、「駆け引き」が見えるレースが面白いよね。
すごく高いレベルの国際レースだと、たとえば125ccクラスはパワーがないからお互いを利用しつつ走るわけ。トップで走ってるバイクのすぐ後ろにつくと空気抵抗が減るからパワーをセーブできるし、その勢いを利用してパッと前に出るっていうことをやる。だけど、あんまり長く後ろについていると風が当たらないからエンジンがオーバーヒートしてだめなんだよ。お互いに駆け引きし合ってるみたいな感じ。そうして抜きつ抜かれつしながら、最後にうまく自分が1番で抜けるようにもっていくという、ものすごく微妙なことをやってる。競輪も似てるけどね。

青木 マラソンもどこでラストスパートをかけるかとか。駆け引きは見ていて面白いですよね。

鈴木 やっている方もその方が面白いしね。みんな競い合うライバルなんだけれども、1つのレースとして成り立たせるみたいな意識ってあると思う。レースに限らず、製造業の現場だったり、この後に話す連句も同じだけど、日本という国は共同ですごくレベルの高い追及をするということが、文化として根付いてる気がするよ。


#3 スローモーションの中の人

 

■得意なものを広げていって、最後に不得意なところを潰す

鈴木 サーキットで練習してると、苦手なコーナーとか得意なコーナーとかが出てくるんだよね。苦手なコーナーをどうやって速く走るかっていう問題意識で練習しがちなんだけれど、それをやると、逆にどんどんタイムが悪くなっちゃう。
コーナーって入るところから出るところまでつながっていて、出たところは次のコーナーに向かっているわけで、全部ひとつなぎにつながっている。自分の体のくせや何かとの関係で苦手になるべき理由はあるわけじゃない?それを何とかしようと思っても、苦手なものはやっぱり苦手だから、そこに意識を集中するとますますトータルのタイムが悪くなっちゃうわけ。それに引きずられて、その前後もだめになっていくんだよね。
だから逆に「得意なところをよりうまくする」っていうことを考えて、全体がよりよくなるようにしていくと、結果的に苦手なところもよくなってくる。その苦手なコーナーも全部つながっているわけだから。

青木 ご自身の経験からですか?

鈴木 メンタルトレーニングを扱った本を読んで気づいたんだ。メンタルトレーニング的なことを発想した人って、オリンピックの射撃選手なんだけれども。百発百中に近い人がたまに外すのは何でだろうっていうことに注目して、外すことをなくそうと一生懸命研究したら、どんどん成績が悪くなっちゃったんだって。それで、メンタルトレーニングっていうのは自分の最高の状態をいかにイメージするかが大事なんだっていうことが初めて発見されたらしい。
このことをレースに応用すると、得意なものをどんどん広げていって、その結果として最後に不得意なところを潰す、という方向でもっていかなきゃいけないってことなわけ。得意な領域が広がると自信もついてくるし、やってて気分がいいから全体のパフォーマンスがよくなるんだよね。


#4 展開の読みに優れた元レーサーのカメラマン

 


CHAPTER 2 連句 × 鈴木誠一郎

*連句:五・七・五の長句と七・七の短句を一定の規則に従って交互に付け連ねるもの。(「デジタル大辞泉」より)

■的確な判断を瞬間的にやる「捌(さば)き手」

青木 50歳を過ぎてからは連句を始められたということですが、連句の面白さを教えてください。

鈴木 連句っていうのは、何人かの「連衆(れんじゅう)」と呼ばれる参加者で、最初に五・七・五の句をつくって、次はそこに七・七の句を付けて、その次はまた五・七・五の句を付けてっていう感じで句をつないでいくのを繰り返して、最終的に1つの作品(=一巻)に仕上げるんだけれど。
人がつくった句の次に、そこに何かの関連をつけながらいかに発想を飛躍させて次の句を付けるかっていうことを考えつつ繰り返していく。人との係わりの中でやっていくわけだよね。そうするとその場の空気ができて、自分一人で考えていたのでは出てこないような自分の可能性がズルッと引き出される。そこがすごく面白い。
でもそれは、その場をリードする「捌き手」と呼ばれる人が上手か下手かにもよるんだけれどもね。場の雰囲気をつくったり、人の可能性を引き出したりっていうのが上手じゃなきゃだめなんだよ。

青木 「捌き手」が重要なんですね。

鈴木 うん。たとえば、ある句が出てその次の句をつくるときには、みんなでワァーッと候補句を出すんだけれど、その中でどれを次の句にするかというのは捌き手が決める。そうじゃないやり方もあるけれど。そうすると、捌き手は一種の権力者でもあるから、勘違いして妙に威張っちゃう人や、逆に迷ったり遠慮しちゃう人もいるわけ。そのどっちもだめなんだよね。判断が的確で早くなくちゃいけないし、自分がした選択について説得力がなくてはいけない。そうじゃないと、場がどんどん盛り下がってつまらない作品になる。

青木 捌き手の判断もあまり時間をかけられなさそうですね。

鈴木 私も捌き手を務めることが半分ぐらいあるけれど、慣れれば割と瞬間的にわかっちゃうもんだよ。それを頭で考え始めると迷ってしまってだめ。やり始めてすぐに「ロードレースとそっくりだな」と思ったよ。頭で考えずに反射神経を鍛えるのが大事だし、その場にいるみんなは、暗黙のうちに実は共同で何か1つのことをつくり上げてる関係、というところがね。

「2011年の芭蕉忌(10月)に行った正式俳諧(しょうしきはいかい)では、執筆(しゅひつ)という主役を務めた。連句一巻をつくって奉納するセレモニーなんだよ」

 

■インプットされたものから自由になる

青木 ロードレースと同じで連句も頭で考えちゃだめなんですね。

鈴木 もちろん頭も使うけれども、前の句(=前句)に付けるときに理屈でつなげたり、ストーリー展開としてつなげてはだめなわけ。それをやっちゃうと次々につなげるのが難しくなって煮詰まっちゃうんだよね。句の付け方にはいろんな分類があるんだけれども、松尾芭蕉が開発した「匂付(においづけ)」は、理屈やストーリーではない直感的な関連で付けていく。つまり、一見、無関係に見えるんだけど、どっかでつながってると感じさせるようなものをもち出すわけ。だから、考えるのではなくて感じる力を鍛える。
それから、水平思考(※2)というか発想の転換が大事。前句とどこかつながっていながら違うものを出すわけだけど、前句とその前の句(=打越(うちこし))も「一見無関係ながらどこかでつながっている」っていう関係になってるわけじゃない? ところが慣れない人がやると、ついつい打越と似たような句を出しちゃう。

※2 水平思考:ある問題に対し、今まで行われてきた理論や枠にとらわれずに、全く異なった角度から新しいアイデアを生もうとする考え方。(「デジタル大辞泉」より)

青木 前に出てきた句に引きずられちゃうというわけですね。

鈴木 人間って一度インプットされたものから自由になることがものすごく難しいんだなっていうのを、連句をやるようになってあらためて感じたんだ。連句では、前に出たことを繰り返すっていうのはいけないことだから、次々に違う方向に転換していきつつ、つながりをつくっていかなきゃいけない。そうじゃないと作品全体が面白くなくなるから。それって日常的にやってることとはかなり違うから、違う部分が鍛えられる感じがする。
それに、捌くときの頭の働かせどころと、自分で句をつくるときの頭の働かせどころってすごく違うんだよね。捌き手を経験した方が連衆としても腕は上がるんだけれども、自分が連衆のときに捌き手的なことを考えてはだめ。いろんな都合を考え過ぎると発想が自由に飛躍しなくなっちゃうから。個別に面白いところに集中しないとだめなわけ。奥が深いよね。

 

■予定調和ではないコントロール

青木 聞いていて、捌き手はファシリテーターに近いなと思いました。場を面白くするために、全体の雰囲気をどこにもっていくかをコントロールするところとか。

鈴木 ただ、最初からこういう方向にもち込もうっていうことを考えてやってるとだめなんだよ。ジャズとかの即興演奏と同じで、あるルールは決めるんだけれども、それに従ってどう展開していくかは出たとこ勝負なわけ。その出たとこ勝負をでたらめにならないようにうまくコントロールするのが捌き手。予定調和ではだめなんだよね。

青木 鈴木さんの著書『レイアウトの教科書。』(MdN)にも書いてありましたが、アートディレクターも捌き手に似ていますね。

鈴木 うん。捌き手もアートディレクターも、みんなのノリのよさを引き出さなきゃだめなんだ。
連句っていろいろな形式、長さがあるけれど、代表的なのは36句の「歌仙(かせん)」という形式。それだとだいたい完成までに4、5時間かかる。そうすると、その間ずっとみんなが高いテンションを保ち続けることはできなくて、人によってモチベーションの緩急もある。それに、採用された句の数が人によって偏っちゃうと、採用されない人はどんどん調子が出なくなっちゃうわけ。だから、そこら辺も考えつつやらなきゃいけない。

「これは墨田区の向島百花園で連句をやったときの写真。2000年だから始めたばかりの頃だね。コロリ(田中晃二さん/元AZホールディングス 代表取締役副会長)もいるよ」


#5 外国にも影響を与えた芭蕉誹諧

 

■受け手が「穴」を埋める構造

鈴木 明治時代に正岡子規が、連句の最初の1句(=発句(ほっく))だけでよしとしよう、と言って広まったのが「俳句」なんだけれど、連句をやると最初の1句がすごく大事だっていうのがよくわかる。その発句だけでつくる俳句っていうのは、17文字の中で言いたいことを全部言おうとすると、ろくな句にならないんだ。いろんなことを言おうとしてもその長さではちゃんとは説明できないし、何とか詰め込んだとしても全然面白くない。そうではなくて、「穴」を開けておいて、「その穴を読者が勝手に埋める」って構造を上手につくれると、すごくいい句になる。読者が自分の思いを美しく盛ることができるような新しい器をどう提供できるか。「上手な余白のつくり方」「上手な器のつくり方」をどうするかっていう技術なんだよね。突き詰めれば連句の句は全部そうなんだけれども。

青木 なるほど。俳句をつくるときも、連句の最初をつくる気持ちでつくった方がいい作品になるんですね。

鈴木 俳句のつくり方として解説されてることは全部、基本的には連句の技術なんだよ。
「取り合わせの俳句」っていうのがあって、たとえば、「秋風や模様のちがふ皿二つ」(作者:原石鼎)という有名な句があるんだけど、「秋風」と「模様の違う皿二つ」って意味としては一見何の関係もないじゃない? でも、「秋風が吹いてくる感じ」と「模様の違う皿が二つある」ってことの間に何か感覚的な関係がありそうな気がするわけ。つまり、読む人それぞれが、「秋風」と「模様の違う皿」っていうものの関係を勝手につくり出す。その関係をつくっているのは「詠み手」じゃなくて「読み手・聞き手」なんだよね。だって「秋風や模様のちがふ皿二つ」としか書いてないわけだから。その句を読んだり聞いたりしてイメージする事柄は人によってかなり違うはずで、でも誰もが、そこに何か、今まで語られたことのない美しいものがあると感じる。それは実は、そこにあるというより、その人がその句をきっかけに自分の中につくり出したものなんだよね。「名句」っていうのはだいたいそんなようなもの。「取り合わせの俳句」以外のタイプの俳句も、結局はみな同じ。意味を押しつけるんじゃなくて、人からクリエイティブな解釈力や編集力を引き出すことができるのが「名句」なんだ。

青木 読むことは受け身ではなくて、創造的なんですね。

鈴木 そういう意味でも俳句は連句の伝統を引き継いでると言える。よく考えると、そもそもコミュニケーションというものは、全てそうだと思う。

青木 鈴木さんがよく言われる「情報の送り手側が伝えたいと思った内容ではなく、受け手側が理解した内容こそが、伝わった情報」ということですね。

鈴木 その考えは連句をやる前から思っていたことなんだけれども、やってみたらドンピシャリ。伝え手と受け手のコミュニケーションというものを深く追求して体系化したようなものが、日本の連歌や連句、俳句っていう伝統だったということがやってみてわかった。


#6 作り手と受け手が分離していない連歌

 


CHAPTER 3 ガールズトーク × 鈴木誠一郎

■発見のネタが無数に転がる「ディテール」

鈴木 連句って長い時間がかかるから飲み食いしながらやるんだけれども、無駄話も結構するわけ。みんな一生懸命、前句にどう付けるかを考えてるんだけれども、そればっかりやっているともたないから、息抜きに無駄話を盛んにしてるわけだよね。関係のない話をガンガンやってると、その話題の中からもパッと発想が浮かぶことがある。

青木 結果的に無駄じゃなかったという感じに。

鈴木 大半は無駄なんだけど。別に「役に立てよう」って意識してやってるわけじゃないんだよね。連句のやり方にもよるんだけれど、つくる人の順番を決めて進めるやり方だと、考える順番に当たってる人以外は、何も考える必要がないから無駄話してるわけ。おじさんやおばさんなんだけれども、ほとんどガールズトーク(笑)。
ところで、ガールズトークってディテールの話がほとんどだけれど、物事のディテールって面白いよね。

青木 ディテールが面白い?

鈴木 筋道の立った話をするときは、その筋道の枠組みがあるわけじゃない? 何かの目的があってここに落とし込もうみたいな。でも、ガールズトークっていうのはそれがない。そうすると、生のディテールが出てくるわけ。それが面白いんだよね。発見のネタがいっぱい転がってる感じがある。なんの枠組みもないから話は広がるし、どこに広がるかわからない面白さもあるでしょ。

 

■人間のコミュニケーションはそれ自体が目的

鈴木 人間の言葉がなんで生まれたのかって考えたときに、何かの目的のためだとすれば今の言葉みたいな発達の仕方はしないと思うんだよね。ある特定の目的のために効率のいいことをやろうと思ったならば、今、人間がもっているような言葉のシステムよりも、もっと効率のいいシステムっていっぱいあるはずなんだよ。
ネアンデルタール人って、今の人間のような言葉をもっていなかったという説があって。一方、人類の先祖とされるクロマニヨン人は言葉をもっていたと言われていて、特定の目的のためではないコミュニケーションをとれるようになった。それが人間の人間になった一番肝心な点じゃないかなと思う。
要するに、人間のコミュニケーションは何か特定の目的のためっていうより、コミュニケーションすること自体が目的なんだ。サルがお互いに毛繕いする目的っていろいろ言われてるけれども、蚤を取るとかフケを取るとかの実用的な目的のためというよりは、立場を入れ替えて気持ちいいサービスをしあうことで、お互いの関係をよくすること自体が重要なわけ。一種のコミュニケーションで、それと同じことだと思うんだよね。

青木 コミュニケーション自体が目的。

鈴木 情報のやりとりをすることを通じて、関係をキープしたり、共有する言葉の体系をメンテナンスすること自体が人間にとってすごく大事。人間って4、50人ぐらいの集団で生活するのに都合がいいように進化してきたって言われてるんだけれど、その4、50人のまとまりをいろいろ予測不能に変化する状況の中でもキープする上では、特定の目的のためではなくて、情報をやりとりすること自体を楽しむ必要がある。最初の話と似てくるけれど、「それ自体が楽しい」ってことじゃないと続かないわけだよね。

「連句をやってる最中の写真なんだけど、女性ばっかりでガールズトークだね。元ガールズ(笑)」

 

■ガールズトークは人間のコミュニケーションの本質

青木 コミュニケーション自体を楽しむということですね。

鈴木 それこそ素粒子と素粒子の間で、別の素粒子をやりとりすることで、お互いの引っ張り合う力が確保されてるみたいな関係。人間のもつコミュニケーションの力っていうのは一人一人独自につくってるわけじゃなくて、コミュニケーションのシステムを他の人間と共有することで成り立っているもの。他の人間と情報のやりとりを続けてないと枯れてっちゃうの。コミュニケーションをし続けること自体が、人間にとっては生き続けるための必須条件なんだよね。何が目的か、何かの役に立つか立たないか、なんてことは二の次。コミュニケーションをすること自体の中に楽しみとか喜びの種があるわけ。それに、さっき言ったように、一人一人が創造的じゃないとコミュニケーションが成り立たない。言葉は硬いコードじゃなくて、緩くて流動的な体系だから。それは、いわゆるガールズトークや井戸端会議とか、そういうところではっきり出てる。男はすごく理屈っぽく何かのための話をすることが多くて、そっちの方が偉いような気がしてることが多いと思うんだけれども。ガールズトークの方が人間のコミュニケーションの本質に近い感じがする。

青木 仕事でも、せっぱつまったときって、男性よりも女性の方が意外としぶとく最後までやり遂げるみたいな(笑)。

鈴木 ガールズトークがもつコミュニケーションの本質って、仕事をやる上でも本当は必要とされてることなんだよね。ものすごく男社会的な組織っていうのは、限界がある気がする。もちろん、ガールズトーク的なことだけやってたら仕事にならないから、両方なきゃいけないんだけれども。近代社会って、ものすごく男性中心的な価値観がガチガチになった社会だと思うんだけども、それが行き詰まってきていて、ガールズトーク的なものがもつ価値が最近は生きてきてる感じがするよね。

青木 ガールズトークがもつ価値っていうのは、ディテールを見たりしているということですよね?

鈴木 というか、男性的なとらわれがない。脳じゃなく体で考えられるところ。それこそ、女性は頭で考えずにできてしまうから、どう生かすかを考えるときには男性的な理屈っぽさも学んだ方がいいのかもしれないけれど。一方、男性は男性でガールズトーク的なものに、もうちょっと馴染む必要がある気がする。両方に足を突っ込んでバランスよく。そうそう、男がディテールをほとんど見ていないっていうのは、子ども時代に描いた絵に顕著に表れるよね。パッと見たものを描いても、たとえば洋服の細部がどうなっているかとか描けないから。

■直感的な判断と理屈での分析

鈴木 ガールズトークと言えば、20代の終わり頃に女性雑誌の仕事に関わったことで、ずいぶん視野が広がったし、自己認識も変わったと思うよ。未だに女性は謎だらけだけどね。

青木 今おっしゃられていたようなコミュニケーションの本質に、その頃気づかれたということでしょうか?

鈴木 仕事でデザインを始めた頃に百科事典のデザインをやってたんだけれど、それまでに勉強していた近代的なデザインのままで結構通用するわけ。だけど女性誌となると、その近代的なデザインだけでは誌面が硬くなってしまう。どうしようか考えたときに、近代的なグッドデザインの枠からあからさまには外れずに、でもちょっと踏み出したようなものを結構追求してた気がするんだよね。

青木 枠を知らなければ「はみ出し方」もわからないし、枠を知ってるからこそ、ここは外していいのか悪いのかの判断ができる、というのがありますよね。

鈴木 そこら辺の判断も、頭の判断よりは直感的な判断の方が強い。何でもそうだと思うんだけれども、そういう直感的な判断と理屈での分析っていうのは車の両輪みたいに両方必要。先行するのはどちらかと言えば直感的な判断の方で、理屈の方は、後追い的に直感的な判断を整理したりっていうことなんじゃないかなって。ギリギリでの判断が求められるような場合っていうのは複雑で難しい状況だから、理屈だけではこっちが正しいって言い切れないことが割と多いんだよね。そこで頼りになるのは体感的な判断能力をどこまで磨いてるかっていうことだと思うんだ。ただし、判断したならば、その判断を前提に物事がどんどん展開し始めるわけだから、的確に対処したり先の展開を読むために、理屈でちゃんと分析できなきゃいけない。だから両方必要なわけ。

青木 僕たちが仕事でデザインをするときにも、なぜそのデザインがいいのかを言葉で説明できないと、説得力をもたせられないですしね。

鈴木 型を大きく破るような新しいことをしようとするときにも、型っていうものがちゃんとあった方がいい。それこそ火薬は何かに詰めた方が爆発力が大きくなるのと同じで。武道の型っていうのも、きっちり体に叩き込んでおかないと素晴らしい型破りができないわけだしね。

青木 じゃあ、直感を鍛えるにはどうすればいいんですかね?

鈴木 直感で判断するような状況を疑似体験することをたくさんやるっていうのが大事なんじゃないかな。「学ぶ(まなぶ)」っていう言葉は「真似ぶ(まねぶ)」と同じ語源だからね。型を身に付けるときに、四の五の言わずにとにかく真似をする。そうするうちに、型の意味がだんだん体でわかってくるようなところってあるわけだし。
頭で考えない能力を鍛えた方が、大きい飛躍を達成できる気がする。だけど、全く頭で考えないわけではなくて、考えることと直感とのバランスはすごく微妙だと思う。最後まで何も考えなくてはただのバカだし、考えてばかりでもやっぱりバカだ。

 


CHAPTER 4 ページの編集デザイン × 鈴木誠一郎

■時間的な自覚が必要

青木 最後に、僕たちが仕事としてやっている「編集デザイン」についてお聞きしていきたいと思います。
鈴木さんは1971年に集合デンを創業して、百科事典や雑誌などのアートディレクションやデザインをされていました。こういった雑誌や書籍の「編集デザイン」のデザイナーには何が大事だと思いますか?

鈴木 ページ物の「編集デザイン」は、雑多な物事を整理したり、ページ単位やページ展開での見せ方をまとめていくわけだけど、このページ展開というのはつまり時間的な展開なんだよね。デザイナーは空間を扱うけれど、時間的な自覚が必要だと思う。

青木 「時間的な自覚」というのは具体的にどういうことでしょうか?

鈴木 時間軸を取り込んでデザインを考えるべきだということ。
たとえばポスターだったらパッと見て全ての情報が一緒に目に入ってくるわけだけど、ページ物は、次々ページをめくっていくというふうに、ある時間的な展開の中でしか見ることができない。映画や音楽と同じ時間芸術なんだ。ただ、映画や音楽はつくった人の設定した順序通りにしか観たり聴いたりできないけれど、ページ物は、作り手が設定した順序じゃない順番でも読める。後ろから読んだり興味のあるところだけを読んだりってね。つまり、読者がその人独自の編集をかけて読むことができるわけ。そういういろんな見方ができるという意味でも、さっき言ったように、コミュニケーションっていうのは受け手側のクリエイティビティに依存してるんだよね。

 

■不易流行と時間的な広がり

青木 デザイナーは時間軸を意識しないといけないわけですね。

鈴木 「編集する」ということは、「時間的な推移の中で物事を考える」ということなんだ。視覚という情報の感覚は、時間なしでも成り立つかのような錯覚がある。たとえば、静止画像の写真を見ても不自然だと感じないのは視覚だからなわけで、聴覚では瞬間の音なんてあり得ない。モーツアルトは一瞬で交響曲が浮かんだって言われてるけど、それは天才のみのこと。聴覚情報っていうのはある時間の経過がないと成り立たない。
視覚も瞬間的にピピピッといろんな情報をスキャンしてそこから視覚像をつくり上げているから、本当は時間的推移の中で情報を受け取っている感覚なんだけれど、人間の自覚としては時間を抜きに成り立っているかのように感じてしまう。それが問題なんだよね。私もデザイナーとしてのキャリアの初めに、物事を図で表すということを集中的にやったけど、そればっかりやってると物事は時間的要素を抜きに成り立ってるかのような幻想が、知らず知らずのうちにできてくるから気をつけないといけない。

青木 錯覚に惑わされない。

鈴木 そう。人間は時間の流れの中で生きているわけだから。今あるものを、永遠不変に成り立っているものだという前提で考えるのか、そうではなくて不易流行、つまりどんどん移ろいゆくものの中の「今」だけを切り取った一瞬のものだと考えるかによって、物事のやり方がものすごく違ってくる。デザインに限らず、なんでもそうだと思うんだけれど。永遠不変という前提でやっていると煮詰まって限界に突き当たることでも、全てのものは流れゆく中の一瞬だととらえると、出口が見えてくることって多いと思うんだよ。
もう少しわかりやすく言うと、今はどうしようもない問題でも時間が解決するっていうこともあるじゃない? 極端に言えば個人的な問題なんて死んでしまえば全て解決する。あるいは、問題のある部分が他の人に移植されて違う形に変わっていくこともあるかもしれない。つまり、今のその場で全てが固定される関係なんてないわけだから、それを前提に考えるようにすれば物事に対する違うアプローチの仕方も出てくるし、世界が広がるよね。空間的に広がることばかり考えるのではなくて、時間的な広がりも考えるようにすると、物事にはいくらでも違う広がり方があるっていう気がする。視覚を相対化してとらえるべきなんだ。


#7 『あまちゃん』の脚本に見えた共通点

 

■意図しきれない成功

青木 たとえば、ひと見開きを一瞬見るのか全部読むのかでも全然違ってくるとか、そういうことも。

鈴木 うん。だから、こういうふうに設定してこうつくったならば絶対こういうふうに受け取られる、なんてことはないわけ。雑誌でも作り手が意識してたのとは全然違うところを読み手が面白がってくれるということが起きるじゃない? 何度か経験したんだけれども、定期刊行の雑誌で編集長も私も「これはうまくできた」って自画自賛する号って大抵売れないんだよね。何かの「とらわれ」が形になってしまっているのかもしれない。連句もそうなんだけれども、ベストの作品って意図的にはなかなか作れない。

青木 さっきおっしゃっていた、コミュニケーションには受け手の編集に委ねられる要素が必要だ、ということがあるんですね。

鈴木 よくできてるということは意図的に全てはコントロールしきれないもので、本当にベストなものは、たまたま受け手にピタッとはまるものができちゃったという結果でしかできない。たとえば大ヒット曲というのも多分そうでね。

青木 ヒットの理由を後で分析することはできるけれど。

鈴木 あらかじめ意図はできない。
あるレベルまでは意図してもっていけるけれど、そこから先の傑作や名作ができるかどうかは、ほとんど天の賜物だと思うよ。そう思って開き直っていた方が、逆にできやすくなるんじゃないかっていう気がする。もちろん、狙いは狙いで一生懸命考えてないとその狙いを超えたものは出てこない。でも、狙ったことにとらわれ過ぎないようにする必要があると思うんだよね、仕事だけじゃなく何においても。とらわれ過ぎると目がふさがってしまって、狙いから外れたすごくいいものが向こうからコロコロと転がってきても気づけないから。

青木 最初におっしゃられていた、役に立つかどうかを考えずに、面白そうと思ったらとにかくやってみることが大事、新たな発見があるかもしれない、というお話と共通しますね。

鈴木 意図するなということではないんだけれど。私も元々は狭い世界にこもるタチだったのが、高校のときに剣道をやったことをきっかけに意図的に違うことをやってみたりして。意図的にやると失敗することが多かったけれども、失敗は失敗ですごく貴重な経験になっているという気がする。
大事なのは、人に対しても物事に対しても常に扉を開いておくこと。意図しきれない成功の方が本当は大きい成功になる、ということをわかった上でいろいろ意図する方が、成功に近づくこともできるし、柔軟に物事に対処できると思うんだよね。 (おわり)


#8 今の興味は音痴を克服すること

THE CHIEF EDITOR’S NOTE

(『サストコ』編集長 青木晃治)

目の前で繰り広げられる「瞬間の編集デザイン」

 

ずーっと喋ってるんですよね、鈴木さんって。しかも聞いてて飽きないんです。

 

話の途中で、前に聞いたことがあるエピソードだな〜とか思ってると、全然違う話につながっていって、「へぇ新見解! 面白い」と思って聞いていたら、いつの間にか論理的で先生みたいな鈴木さんが戻ってきてて。それも誰かの一言をきっかけに、ふいにまた違う方向に話が向かっていったり。
こんな感じで徒然なるままに語っていく様子が、グルービーでありつつも、まんまガールズトークだな、と思ったわけです。

 

それも単純に自分の気分・興味だけで喋ってるのかと言えばそんなわけはなく、メンツや場をよく観察した上で、最適な話題や見方を選択しているみたいです。結論をもたずに喋ったり、その場しのぎの話をしているはずもなく、会話の中で絶妙に探りを入れながら、毎回その場に対してカラダで反応し思考をめぐらせ、アップデートされた言葉が紡がれてるんだと思います。

 

そういえば以前、僕がちょっと内にこもってた時期に、「青木くんは、とにかく外に出ていろんな人に会いなさい。」と鈴木さんに突然言われたことがあるんです。これも今から思うと、コミュニケーションの絶対量が足りてないことを見透かされてのアドバイスだったのかもしれません。

 

今回は、インタビューで言われているとおり、「瞬間を編集しデザインする。そのための心得や態度が、まさしく今目の前で実践されてるんだな」と思いながら話を聞いてた感じです。

 

40年以上の長きに渡る、会社の第一線でのご活躍、本当にお疲れさまでした。


◆Credits
Photos_Satoshi Nagare(Fuse Inc.)
Text_Yuka Iwadate
Edit_Kouji Aoki, Naoko Kawachi, Yuka Iwadate
Art direction & Design_Yasuki Honda

◆取材場所/宮越屋珈琲 恵比寿店
http://www.miyakoshiya-coffee.co.jp/jp/shopinfo/ebisu