サストコ
Author:
サストコ

こんにちは! サストコ編集部です。
7月26日公開の「FEATURE ARTICLES Vol.12」では、「人間の中にある『編集デザイン』」と題した、元 AZホールディングス 取締役会長である鈴木誠一郎さんへのインタビュー記事を掲載しました。

ところで、鈴木さんって、膨大な知識をおもちなんです。

たとえば、今回のインタビューの構成を考えるにあたり、プレインタビューをさせていただいたのですが、気づけば開始から3時間(!)。お話が途切れないんです。
まるで、鈴木さんの頭の中にたくさんの本棚があり、ある言葉をきっかけに、本棚から「これだ!」と直感的に本を探しあててお話されているかのよう。

一見、なんの関係もないように思える事柄が、鈴木さんの中の“なにか”を通してつながっていく。話がいろんな方向に展開してくのも面白いんです。

さらに2時間のインタビュー本番と合わせてトータル5時間のお話。インタビュー記事ではお伝えしきれなかったことがたくさんあります。私たち編集部の胸の中にしまっておくのはもったいない!
というわけで、インタビュー本編とつながりのある、鈴木さんの8つのお話をご紹介します。


# 1|頭で考えない世界の入口
# 2|翻訳料でモトクロッサーを購入
# 3|スローモーションの中の人
# 4|展開の読みに優れた元レーサーのカメラマン
# 5|外国にも影響を与えた芭蕉俳諧
# 6|作り手と受け手が分離していない連歌
# 7|『あまちゃん』の脚本に見えた共通点
# 8|今の興味は音痴を克服すること

 


COLUMN # 1|頭で考えない世界の入口

高校では剣道部だったんだよね。スポーツはあんまり好きじゃなかったけど、元々、虚弱児童だったから、これじゃいかんと思って剣道を始めたんだ。やった結果、いろんな意味ですごくよかったっていう気がする。「頭で考えるのではない世界」みたいなものの入口がちょっとはわかったかなと思う。

関連ページ⇒ インタビュー本編「頭を使わない訓練」

 


COLUMN # 2|翻訳料でモトクロッサーを購入

オフロード車で山道を走ってる延長で目いっぱい飛ばしたくなったけれど、公道じゃ限界があるからってモトクロッサーを買ったんだ。講談社の仕事をやっていた関係の知り合いから、「あいつはバイクに凝ってるらしい。英語もできるし」という感じで、イギリスのバイク本の翻訳の話が来たんだけど、その1冊分の翻訳料でヤマハのモトクロッサーが1台買えた。そう言えば、当時『アンアン』の編集長だった秦義一郎さんとは、ほとんど毎週末、桶川のモトクロス場まで一緒に行ったりしてたんだよ。

(写真左)当時『アンアン』の編集長だった秦義一郎さんと。(写真右)モトクロスのレース中の写真。

 


COLUMN # 3|スローモーションの中の人

バイクで転んだときって時間の流れが急に変わる。いきなりスローモーションの中の人になっちゃうんだ。そういう感覚ってレースをやって初めて経験した。ゆっくりになったからと言って自分だけ早く動いて対応できるわけじゃないんだけれども、神経や脳の反応速度が急に上がるんだよね、きっと。あんまり怪我をしないような対応ができるしくみになってるんじゃないかな、人間の身体が。

 


COLUMN # 4|展開の読みに優れた元レーサーのカメラマン

レース専門のカメラマンっていうのはレース展開の読みが優れてるんだよ。サーキットの中に何箇所もある撮影スポットにどういうタイムスケジュールで行くかっていうことを組み立てるわけだけど、「この顔触れで、それぞれのチームの今の状況だと、こういうレース展開になるんじゃないか」と考えを巡らせながら、いい写真が撮れる勝負所がいつ、どこになるかを読んで動いてる。自分でもレースをやってたことのあるカメラマンがほとんど。自分でやった経験があると観賞力が高まるっていうことがあるんだと思う。

 


COLUMN # 5|外国にも影響を与えた芭蕉俳諧

俳諧って江戸時代から部分的に翻訳されて外国に伝わってはいたんだけど、明治になってからはどんどん伝わるようになった。日本の芭蕉俳諧の考え方は、イマジズム(※1)やサンボリズム(※2)に、ものすごく影響を与えてるんだよね。日本人にはあまり知られてないんだけど。イマジズムを唱えた主な詩人の一人にエズラ・パウンドっていう人がいるんだけど、彼は正風俳諧(しょうふうはいかい)からヒントを得て理論をつくったんだよ。その流れをくんだT・S・エリオットやオクタビオ・パス、それに昨年のトーマス・トランストロンメルも、ノーベル文学賞をもらっている。でも日本人はその系統ではもらっていない。

映画監督のセルゲイ・エイゼンシュテインが考えたと言われる「モンタージュ理論」も正風俳諧からヒントを得ているんだ。モンタージュ理論っていうのは、いくつかの映像を組み合わせて、そこに新たな意味をつくるという手法。たとえば、映画で、戦艦の水平の反乱の場面のすぐ後に、乳母車が階段を転げ落ちる場面になるっていうのは、正風俳諧の匂付(においづけ)の関係なわけ。「反乱」と「乳母車が落ちる」って全然違うものなんだけど、なにか感覚的につながるんだ。

※1 イマジズム:1910年代のイギリス・アメリカにおける自由詩の運動。俳句などの影響のもとに新しい主題と明確なイメージを見いだし、従来の韻律にこだわらない簡潔な詩をめざした。(引用元:三省堂 大辞林)
※2 サンボリズム:象徴主義。19世紀末から20世紀初頭にかけて、主としてフランスを初めヨーロッパ諸国に起こった芸術上の思潮。主観を強調し、外界の写実的描写よりも内面世界を象徴によって表現する立場。(引用元:三省堂 大辞林)

 


COLUMN # 6|作り手と受け手が分離していない連歌

連句って近代社会と合わない。
昔は寺子屋の師匠とかはほとんどみんな俳諧をやっていて、連歌・連句は文化人にとって必須のアイテムだった。レベルの高い世界っていうのは、作り手と読み手が一致している世界だという考えが、江戸時代の末まではあるわけだよね。でも、たくさん刷って配るようなマスコミュニケーション的な木版などが出てきて、「作者」と「読み手」という分離が始まった。

連句は作品を読んでも、自分でつくった経験がないとよくわからない。前句を読んでつくるから、読むこととつくることが表裏一体なわけ。作り手と受け手が分離していないんだよ。だから観賞力がつくまでに一定の訓練期間が必要だし、一度にたくさんの人に教えることができない。せいぜい多くても6、7人が限度で、4、5時間かけないと一巻ができない。1対多っていうマスコミュニケーションの構造になりにくいんだよね。俳句は、連句の最初の一句(=発句)だけでいいことにしようといって生まれたわけだけど、大勢の人数に対して一度に教えるという構造が成立する。それも、昔ながらの俳諧の宗匠が教えるっていう形じゃなくて、新聞で俳句を募集するという構造もできて、一気にワァーッと普及した。それで連句はどんどん衰退しちゃったんだと思う。

でも、3、40年前から連句がだんだん復活してきた。1対多から1対1へと、コミュニケーションの流れの中心軸が変わってきているからじゃないかな。もちろん俳句をやっている人口に比べるとまだまだ少ないんだけど、俳句をやっている人が連句に関心を持ち出すっていうことが、ちょっとずつ増えてると思う。

 


COLUMN # 7|『あまちゃん』の脚本に見えた共通点

空間的な広がりだけではなく時間軸も意識すべきだという話( ⇒ インタビュー本編「不易流行と時間的な広がり」)で思い出したんだけど、この間、川崎くんと話してたら、「NHKの連続テレビ小説『あまちゃん』って、鈴木さんの言ってることとピッタリだ」と彼が言い出してね。見てみたらすごく面白いドラマなんだ。川崎くんの言う通りで、ドラマの設定が私の言っていることとピッタリ同じ。それまで見たことがなかったから、NHKオンデマンドで最初から全部見直したよ、凝り性だからね(笑)。

なぜ面白いかっていうと、ガールズトーク的にディテール( ⇒ インタビュー本編「発見のネタが無数に転がる『ディテール』」)がすごく上手につくってあるんだ。脚本がすごく鋭いんだよ、伏線がちょこちょこ織り込まれてる。

高校生の女の子が主人公で、おばあちゃんは三陸の海女さん、母親は昔海女さんになることに反発してタレントになろうとして東京に出てきた人。その主人公のアキちゃんは東京で生まれたのね。事情があって、アキちゃんは母親と故郷の岩手県「北三陸市」に一時的に帰ることになるんだけど、アキちゃんは、海女の世界にすっかりはまって、海女になると言い出して修行を始めるっていう話で。要するに、東京へ出ていくとか空間に水平に広がるっていうことではなくて、逆行して垂直に潜るっていうところに転換するんだよね。ひたすら穴を掘り続けてる人なんかも、なかなか面白いキャラクターとして出てくる。

ほかにもいろんな仕掛けがあって。おばあちゃんの名前は夏さんで、お母さんは春子、主人公の高校生の女の子はアキちゃん。途中でわかったんだけども、アキちゃんって漢字の“秋”で春夏秋冬の“秋”、季節が織り込まれているんだよね。季節って時間的な推移じゃない? 母親の春子さんは、夏さんに反発して故郷を出ていったきり連絡を取ることなく生きてきたにもかかわらず、その「春、夏」の連続で「秋」という名前を娘に付けている。つまり、春子さんは東京にいる間ずっと、反発しながらも故郷に引っ張られていたんだなっていうことが受け取れるんだよね。時間の運行って、人間がコントロールできない世界だから。

あと、アキちゃんのおじいちゃんは遠洋漁業の漁師で、1年間に10日ぐらいしか家にいない。世界中を体感的に見て知っている人なんだ。一方、おばあちゃんは一生「北三陸市」にいて、そこから一度も外に出たことがない人。そういう空間感覚の全く違う人が夫婦になって、すごく仲良くしてる。そのおばあちゃんは私と同い年で65歳、結婚して45年ぐらい経つんだけど、1年で10日だから45年間でも450日しか一緒にいないわけ。

こんな感じで、人によって時間軸が違うんだっていうことが、いろいろなところに埋め込まれているんだ。シナリオがすごく凝ってるんだよね。きっとシナリオ設計のベースには、私が感じていることと同じようなことを脚本家自身が感じていて、訓練を積んでるってことがあるんじゃないかな。東北出身の方らしいから、自分が体感的に蓄積したものを分析して取り出して、組み立て直しているんだろうなって思う。

東京と地方の関係というのも、テーマの一つとして埋め込まれている気がするよ。どうやら後半はアキちゃんがまた東京に戻るらしい。見る人が何を考えるか、見る人次第で感じとる幅が大きくて、そこがやはり優れた脚本なのだろうと思う。ディテールがよくできていればこそ、でもある。

もちろん、全然そんなことを考えなくてもコメディとしてすごく楽しめるけどね。

 


COLUMN # 8|今の興味は音痴を克服すること

最近、なぜかわからないけど音痴を克服したくなって、ギターで弾き語りの練習をするようになったんだ。なかなかキーが合わないこともあってカラオケは苦手だったんだけど、弾き語りなら自分の声に合わせたキーに調整できるじゃない? バイクレースで話した「得意なところをよりうまくする」っていう話( ⇒ インタビュー本編「得意なものを広げていって、最後に不得意なところを潰す」)とちょっと矛盾するけど(笑)。でも、うまく歌えたときって楽しいから。

生まれつき音痴な人はいないっていう説があって、違う思い込みというか、自分で自分を音痴に追い込んでる理由があるんだよね、きっと。

このところ、時間とリズムとか、形とリズムといったことが気になっていろいろ考えるんだけど、音痴にはリズム音痴ということも大きな要素として含まれているので、音痴意識に閉じ込められたままでは、リズムについて考えるにも限界がある気がする。だからカホンという四角い打楽器を椅子がわりに使って、折に触れて叩いてみてる。リズムということを体感的にも多少はわかるようになりたい。慣れてくると、なぜだか音自体もだんだんいい音が出るようになって楽しい。